青い薔薇と交換ねと、赤い薔薇を手にした金髪の少女が言う。
赤も好きだけど、青はもっと好きなの。
無邪気に笑うその姿は、何をしても許される愛される子どもそのものだった。
暗いおもちゃ箱の中で、ギャリーは自らの横に目をやる。視線を下げなければ見えない、小さな小さなイヴ。彼女の赤い薔薇は今、眼前に立つ金髪の少女の手にある。薔薇、つまりは命だ。
ギャリーと合流するまでの間に、メアリーはイヴの薔薇の花びらを一枚千切ったらしい。手渡したとき不注意で、とイヴは言ったが、楽観視は出来ない。命にかかる枚数ではなかったとはいえ、友達の命を削ったことに変わりはない。青い薔薇を渡しても先は見えている。
本音を言えば、イヴに助けてもらった命だ。恩人の命と交換なら、という思いもある。
視線を上げたイヴと目が合う。なんと言いたいのだろう。
薔薇を交換しないで?
それとも、死にたくない?
いいえ、そのどちらでもない気がする。
その目に浮かぶのは、自らの命を握っている少女を案じる色。
こんな状況でも他人を優先する姿勢は変わらないのね、とギャリーは状況も忘れて微笑んだ。
恩人の願いなら叶えないわけにはいかない。まして、それがイヴの願いであるのなら。
答えを待っているメアリーに視線を戻す。
ゆっくりと口を開いた。
「わかったわ」
「本当?うれしい!」
想像通りの言葉にメアリーが喜色を浮かべる。
赤い薔薇を胸元で握り締め、瞳を輝かせるその様はどこから見ても愛らしい美少女だ。友達の命をその手に握って、代わりにお前の命を差し出せと大人を脅すような子どもには決して見えない。
その無意識のあざとさは気に入らないわ、メアリー。
ギャリーは手に持つ青い薔薇を、自らの口元を隠すように持ち上げた。
「ええ。答えはNOよ」
メアリーの表情が瞬時に固まる。
隣に立つイヴの肩が僅かに揺れたが、大丈夫だと安心させるように手を置いた。そう、大丈夫。
「そう、なの。ギャリーは、イヴの薔薇がいらないのね?」
輝やかせていた目を眇め、平坦に問いかける。赤い薔薇の茎を持つ手に力が入るのが見えるが、余裕を失ってはいけない。勝負は取り乱した方が負けだ。
この世界で唯一の大人は、傲岸不遜に言い放った。
「いいえ、ほしいわ」
メアリーは一瞬あっけに取られ、それからからかわれていると思ったのか頬を赤くする。少女が口を開く前に、ギャリーは重ねて言を繋いだ。
「イヴの薔薇はもちろん大切だし、返してほしい。でもアタシの薔薇もあげるわけにはいかないの。だって一番初めにイヴと約束したもの。一緒に外に出ましょうねって」
「だから…!」
「それに、アンタとも約束したでしょう」
一歩ずつ、金髪の少女の下へと歩を進める。あくまで気軽に、ゆるやかに。メアリーは動かない。赤い薔薇を握り締め、一歩も引かないと言わんばかりに近づいてくる大人を睨んだ。
距離が縮まる。手を伸ばせば触れられる位置まで来て、ギャリーは立ち止まった。
「ねぇ、メアリー。3人で一緒に外に出るんでしょう?」
柔らかな声音。
その優しさが無性に癪に障り、思わずメアリーは声を荒げた。
「無理よ…!」
知らず、赤い薔薇を持つ手に力が入る。
「ギャリーは知らないから!私がどれだけ外に出たかったか、どれだけ待っていたか!だって仕方ないんだよ。私だけが外に出ることはできないの。誰かと入れ替わりじゃないと駄目だって言われたからっ、だから!」
ぱちん、と軽い音が鳴った。
膝を折ったギャリーが両手でメアリーの頬を包むように軽く叩き、そのまま上を向かせた。
紫の瞳と、涙に濡れた緑の瞳が間近で見つめ合う。
「ばかね」
ギャリーが怒っていた。
生まれて初めて頬を叩かれ、意味も分からず馬鹿と言われ、怒るべき場面なのに頭が混乱してうまく働かない。結局メアリーの口から零れ出たのは、「なにが…?」という幼い疑問だけだった。
「ほんっと、ばか。なんでアンタ、早くアタシたちに相談してくれなかったの」
「そうだん…?」
「そうよ!アンタがそんな泣くほど溜め込まなくったって、相談さえしてくれたら、アタシもイヴも真剣に考える。3人で考えたら、簡単に答えが見つかるかもしれない。もしかしたら、何とかなるかもしれないじゃない」
また、メアリーの瞳が揺らぐ。
「だめ、だよ。だって…。ここから出られるのは2人だけ。絵を減らすことはできないから、入れ替えるしかないって、言われて」
「そう、わかった」
「え?」
ギャリーは言い置くと、コートのポケットに手をやった。
ちょうどその横から、いつの間にか隣に来ていたイヴが白いレースのハンカチを差し出す。にこりと笑って、「アリガト」と優しい少女の頭を軽く撫でると、少女は安心したように小さく笑った。
受け取った白いハンカチでメアリーの目元を拭う。
「ほら、可愛い顔が台無しじゃない」
メアリーはされるがままだ。
そのまま綺麗に頬まで拭うと、ギャリーはハンカチを自らのポケットに仕舞い、メアリーの右手を取って「じゃあ、行きましょうか」と歩き出した。
「え、え?ギャリーどこ行くの?」
「もちろん、アンタの本体があるとこよ」
事も無げに告げられた言葉に血の気が下がる。
あの絵こそがメアリーの命だ。慌てて掴まれた右手を振り払おうとしたけれど、かなわない。
ギャリーは呆れたように口を開いた。
「勘違いしないでほしいんだけど。別に破りに行くわけでも、燃やしにいくわけでもないからね」
それにそんなことしたら、アタシがイヴに怒られちゃうわ。
ふと気付いたら、赤い薔薇を持った左手を、その上からイヴが握っていた。薔薇を抜き取ろうとする気配はない。目があうと、微笑んでくれた。メアリーの右手はギャリー、左手はイヴに。まるで仲の良い兄弟姉妹のようだった。
「メアリー、行こう?」
イヴの言葉に誘われるように頷く。
おもちゃ箱の入り口の人形を避け、階段を上る。人形達は誰も襲ってこなかった。
元の部屋に辿り着く。ここは2人をおもちゃ箱に落とした後、もう誰も入れないように、メアリーが自分で光を遮り、黄色い造花の柵で覆った。ずっとひとりで遊んでいた、子ども部屋。ここに来るまで、誰も口を開かなかった。ただ、繋いだ手の温かさは感じる。
柵を開けるのは怖い。メアリーが躊躇っていることに気付いているのか、両隣の2人は何も言わない。ただ、握る手に少し力をこめる。大丈夫だと伝えるように。
深呼吸して、覚悟を決めた。
「ギャリー」
「なぁに?」
優しい声。
「ライター。持ってるってイヴにきいた。これ」
燃やして。
良いの?と聞いてくることはなかった。ギャリーは代わりにポンと頭を撫でてくれ、そのくたびれたコートのポケットからライターを取り出す。カチリと点火し、そっと黄色い造花に近づけた。目を逸らす。
明るい光と、紙が焦げる匂い。ものが焼ける音。
入り口が、開いた。
何も言わず、暗い階段を上る。
たどり着いた縦に長い部屋の、一番奥にある絵画がメアリーだった。
「ずっと、ここにいたの?」
囁くようなイヴの問いに、頷くことで答える。
その周辺には、絵本やクレヨンを始めとする、遊び道具が散らばっている。物珍しげに辺りを見回していたギャリーが、画材の中に青い人形を見つけてさりげなく目を逸らした。
今、メアリー自身は外に出ているので、絵の中に残っているのは黄色い薔薇のみ。
表面のガラスは砕け、絵の中心は切り取ったように真っ白だった。
ギャリーが躊躇なく額縁に手を掛けた。パラパラと小さなガラスの破片が落ちる。力を入れて持ち上げようとするが、動かない。
「結構固いわね…」
「そうだよ。わたしもいちばんに、外れないか試してみたもん。でも固くて」
「ちなみに、この絵画がメアリーなのよね。こっちの金の額縁は別に関係ない?」
「え?うん、そう。額縁もガラスも、わたしじゃない」
「よし」
ひとつ頷くと、ギャリーは笑って少女達に言った。
「ガラスが飛び散ると危ないから、ちょっとあっち向いていてねー」
疑問符を浮かべながらも、2人がきちんとこちらに背を向けたことを確認した後、ギャリーは改めて白い絵画に向き合った。軽く息を整えたあと、絵画の下方に狙いを定める。
「せぇ、のっ」
それから、思い切り蹴り上げた。
ガッ、と鈍い音が鳴り、絵画が額縁ごと壁から外れた。床に落下する前に掴み取る。
メアリーが後ろを向きつつ衝撃に驚いたように身体を揺らし、イヴは音に驚いて身を竦ませた。2人が揃って振り向いたときには、その手に無事メアリーの絵画を抱えた笑顔のギャリーがいた。
「外れたわよー」
「………えっ」
ご飯が出来たわよーと同じくらいあまりにも和やかに告げられたものだから、一瞬言葉の意味がわからなかった。彼の手には白い絵画。慌てて駆け寄る。たしかに、「メアリー」だった。あれほど固く戒められていたのに。
「さて、さっきおもちゃ箱でピンク色の鍵も拾ったし、こうしてメアリーも見つけたことだし、次行きましょうかー」
「うん!」
茫然としている間に、ギャリーとイヴがそれはもう楽しそうにメアリーの手と腕を引っ張って歩き始める。
「ちょ、ちょっとまって」と制止をかけると、どうしたの?何か問題があるの?と不思議そうな顔をした2人と目があった。多数決の法則。この場では何を言っても無駄な気がする。メアリーは数秒悩んだあと、結局何を言うでもなく口を閉じた。
そして、赤い薔薇をイヴに返した。ごめん、とは言えない。イヴは、別に構わなかったのに、と言いながら、でも手が繋げるからこっちの方が良いね、と花を左手に持ち、右手でメアリーの手を握った。
ピンク色の家の鍵を開けると、長い長い階段があった。
まず、メアリーの絵を抱えたギャリーが、そのあとから手を繋いだ少女2人が続く。
階段の後の細い回廊を通り抜けると、そこは見覚えのある美術館だった。
「あら、戻ってきたのかしら」
「でも、誰もいない…」
おそるおそる辺りを見回していると、メアリーがひとり先へと歩き出した。手を繋いでいるので、必然的に3人連なって歩き出す。まるで電車ごっこのようだ、とメアリーは思う。誰かがいないと出来ない遊びなんて、本の中でしか知らなかったのに。
いくつかの見覚えのある画の前を通り過ぎ、辿り着いた先は、大きな幅広の絵画がある通路。
「この絵…アタシたちが元々いた美術館だわ」
ぽつりと呟いた途端、絵画の枠が消えた。
表面が揺らぐ。ギャリーがおそるおそる手を絵に当ててみると、沈み込んだ。向こう側がある。
「あ、ねぇこれで向こう側に帰れそうじゃない?ほら、2人とも!」
呼ばれ、イヴがメアリーの手を握ったまま近寄ろうとしたが、メアリーは動かない。
「だめ。だめだよ…3人では出れない。絵がいちまい足りなくなる」
絵に視線を合わせたまま、呟く。
どうしよう、どうしたら良いんだろう。道の前まで来たものの、前にも後ろにも進めない。3人で出る事はできない。絵が足りなくなるから。またあの暗い部屋に帰るのはいや。でも2人のどちらかに会えなくなるのもさびしいと、今初めて気付いた。どうしよう。わからない。
助けて。
自分の手を握るイヴと、絵の前に佇むギャリーを交互に見る。
「ねぇ、ギャリー、イヴ、どうしたら良い…?」
零れ出た不安げな問いかけに、ギャリーは満面の笑みで答えた。
「こうしたら、良いわ」
抱えていたメアリーの絵画を丁寧に床に置き、胸元から自らの青薔薇を取り出す。不可能と言われた花が存在するならば、それは奇跡。満開の、可能性の薔薇。
それを、そっと地面に置いた。
「これ、この世界ではアタシの命みたいなモノでしょ?つまりはアタシよ。これをここに置いていく」
気付いたように、イヴも先ほどメアリーから受け取った赤い薔薇を取り出した。
一枚も枯れていない、見事な赤薔薇。ギャリーの薔薇の傍に置く。
「私のも。1本の薔薇が1人の代わりにはならなくても、2本なら大丈夫じゃないかな」
手放すなかれ、と言われた薔薇をあっさりと床に投げ出す2人。
今メアリーが少し動いて、あの薔薇を踏み潰したらどうなるか考えないのだろうか。
むしろその無防備さに、何もできなくなる。2本の薔薇を見て、ギャリーが今気付いたように付け足す。
「あ、どうせならメアリー、アンタのも置いていきなさいよ」
「…え?」
「黄色い薔薇。アタシとイヴだけじゃさみしいじゃない」
造花が果たして何かの役に立つのか。
浮かんだ疑問は言葉にはならなかった。さみしい、と言ってもらえたことが嬉しくて、嬉しく思っていることを悟られたくなくて、メアリーは自分が持っていた黄色い薔薇を無言で赤と青の隣に置いた。
薄暗い部屋の中で、鮮やかに映える3本の薔薇の花。
「よし。じゃー早くしなさい少女たち。これで帰れなかったら意味ないわ」
まだメアリーは戸惑っている様子だった。
ギャリーは絵の前から離れて少女の前までやってくると、ひょいとその小柄な身体を持ち上げた。
メアリーは急に高くなった視線に驚いて手足をばたつかせる。揺らぎもしない。
「…な、なにするの!」
「はーい、もう迷ってる時間はありませんー。何とかなるわよ。大丈夫大丈夫」
器用に左手一本でメアリーを胸の前に持ち上げると、片手で先ほど床に置いた絵画を取った。メアリーに渡し、しっかり持っているように伝える。そして空いた右手でイヴに向かって手招きした。
「ほら、イヴも来なさい」
満面の笑みで頷く。ギャリーの前まで来て左手を差し出したら、瞬きしたギャリーが楽しそうに笑ってその小さな手を取った。
「もー、ほんとこの子達は可愛いんだから」
そろそろ本当に、時間がないかもしれない。
まず、メアリーと彼女の絵を、絵画の中に入れる。波紋のように絵が揺らぎ、あちら側は彼女を受け入れた。それから、右手を握っているイヴを抱き上げ、そっと中に降ろした。その間ずっとイヴがギャリーのコートの端を掴んでいたので、ギャリーのコートの端だけが向こう側に入った。
何があっても離すまいという決意の現われのように、小さな手は力をこめて白くなっている。少女2人が不安そうな目でこちらを見る。その目に、ギャリーは安心させるように笑った。
「さぁ、帰りましょうか」
最後に振り返って、床に残った赤と青と黄色の薔薇を視界におさめる。
造花も生花も関係なく、それらは自分達の命の代わり。
身代わりをお願いね、と心のうちだけで呟くと、ギャリーは勢いをつけて見覚えのある世界が写る絵画の中へと飛び込んだ。
そうしてしばらく経つと、絵の揺らぎはなくなり、額縁が再び現れる。
静まり返った誰もいない美術館には、三色の薔薇花だけが残された。