なくした記憶に残る鮮明な、

人生のうちで、印象に残っているのは9歳の時。
両親と一緒に初めて美術館に行った。
受付から垣間見える、色々な絵画や大小さまざまな作品。それらをゆっくりと眺める人達。誰も大きな声で騒いだりしていない。この美術館という、ある種独特の雰囲気を湛えた場所が、これまで学校や家しか知らなかったイヴにはとても新鮮だった。まるで別世界のような空間。
両親が入場の手続きを取っている間に、どうしても耐え切れなくなって、ひとりで先に中に入りたい旨を告げた。礼儀正しくておとなしい、と近所からも評判の娘のお願いに、両親は苦笑しつつも了承した。
「いいけれど、美術館では静かにしていること」
母の言葉に神妙に頷く。この空間を私が壊してはいけない。
期待を胸に足を踏み出したことを覚えている。

猫の絵、大きな薔薇の花、可愛らしいソファーや綺麗なオブジェ。題名が読めずとも、作品そのものを見るだけで心が弾んだ。夢中になって色々な作品を見て回っていた時に、僅かの間停電がおきた、気がする。電気の明滅のようなものだったかもしれない。ふと気付くと、イヴは大きな幅広の絵画の前に立っていた。
このときの停電のことを後で母に聞いてみると、「そんなものなかったわよ」と不思議そうに首を傾げられた。
けれど、確実に何かはあったはずだ。記憶の欠落、むしろ齟齬のような違和感が、その時も、その後もずっと付いて回って離れない。
停電の後、どこかめまいがしたかのように世界が揺れ、そうして元の風景がもどってきた。そういえば、どのくらい時間が経ったのだろう。長い間両親と会っていないように思い、父と母を捜しに1階へ向かった。

その時に見た、青が。

ちょうど1階へと降りる階段近くに、一枚、とても綺麗な青色で描かれた絵画があった。題名はあれから忘れたことはない。当時はまだ読めない漢字も多かったが、それでも母に聞いて音を覚え、家に帰ってから辞書で調べた。

『忘れられた肖像』

男の人が静かに眠っている絵。青と紫が基調で、ところどころ星が弾けるように黄色や赤が混じっていた。胸元には綺麗な綺麗な青い薔薇。青い薔薇はこの世界には存在しないと父が言っていた。確かに、この綺麗さはあまりに現実離れしていて、絵画だからこそ表現できる美しさかもしれない。
初めて見る絵のはずなのに、目が逸らせない。
9歳のイヴがその絵を茫然と見つめている間、隣に立った老夫婦が、「綺麗だね」「本当、この世のものとは思えないわ」と会話していた。イヴもその意見には同意する。だが、それ以上に無性にこみ上げる懐かしさと、切なさに戸惑った。あの時、母が自分を呼びに来ていなかったらどうしていただろう、と思う。きっとそこから動けず、理由もないままに号泣してしまっていた。「美術館では静かに」という母の注意は忘れていないが、あのときばかりは衝動のままに、本当に泣いてしまえばよかったのだ。

何も忘れたくなくて、「何かを忘れてしまっていること」を忘れないよう、度々思い出した。
根拠の無い懐かしさ、ポケットに入っていたレモン味の飴玉。あの青い絵画を見たときの気持ちを、思いを忘れない。青に同化するような、赤と黄色を忘れない。

9歳のあの日から、イヴは毎月美術館の展示予定をチェックした。
誰の展覧会があり、なんという名前の作品がくるのか。期間はいつからいつまでか。そうして、ゲルテナの作品が1つでも展示された時には、必ず美術館に通った。初めの数回は母も付いてきていたが、5回を過ぎた頃にはひとりで行くようになった。心配はないと判断されたらしい。もはや美術館の受付どころか守衛にさえ顔を覚えられ、常連のような扱いになっていた。
「事故に遭わないように」「知らない人に付いていかないように」「美術館では静かに」と、この3つの約束だけは守りなさい、と母は言い、美術館の券を数枚くれた。

それから数ヶ月が経ったが、「忘れられた肖像」が再び展示されることはなかった。
10歳のクリスマス、イヴはサンタクロースに、ゲルテナの作品集がほしいと手紙を書いた。誕生日にも何もいらない、来年のクリスマスプレゼントがなくても良い。だからお願いです、あの絵が載っている作品集を下さい。サンタは無事に願いを聞き遂げてくれ、クリスマス、イヴの手元には分厚い装丁の美術本が1冊届いた。それからは、寝る前に「忘れられた肖像」の頁を開くことが日課になった。

今、12歳になって、あの頃よりは色々なことがわかるようになったと思う。
わからないのなら、気になるのなら、とことんまで追い求めて調べれば良い。糸口を見つけたのなら、見失わず、確実に掴み取る。
昨日、閉館時間になり美術館を出るときに、いつも気さくに話しかけてくれる受付の女性が教えてくれた。

「今日も来てくれてありがとう。ねぇ、知ってる?明日から、今の作品に加え『深海の世』と『忘れられた肖像』が追加展示されるの。これだけのゲルテナ作品が揃うのは3年前の展覧会以来だから、楽しみにしていてね」


なんとなく、予感がした。


3年前と同じ、白のブラウスと赤いスカート、最近はまとめることが多かった髪の毛を下ろして、学校が終わってすぐに美術館に向かった。最後の1枚だった回数券を差し出すと、昨日と同じ受付の女性が「ご来場ありがとうございます」と微笑んでくれた。
イヴの手から入場券をとり、半券を返す。その手の中には半券だけではなく、レモン味の飴玉がひとつ。
驚いて見上げる。美術館は飲食禁止のはずだった。
受付の女性は辺りに人がいないことを確かめると、少し身を乗り出して「本当は帰りがけに渡したかったんだけど、私あと少しで交代だから、今のうちにと思って。内緒ね。館内で食べちゃ駄目よ」と悪戯っぽく笑った。
こくりと頷き、そっとスカートのポケットに飴玉を入れる。入場券の半券を持って、「ありがとうございました」とお礼を言うと、「ゲルテナ展、楽しんできてくださいね」と返ってきた。

受付から見える館内の雰囲気は、あの時とよく似ている。静かで、独特。僅かな既視感。期待か不安か、鼓動が早まる。深呼吸をして、足を踏み出した。

館内案内を見ずとも、配置番号だけでこの美術館内は網羅できるようになった。パンフレットに載っていた『忘れられた肖像』が展示されているのは、2階。階段を上ったすぐ右手側。平日の夕方とはいえ、いつもなら数人の観覧客はいるはずなのに、珍しく今日は誰もいない。

導かれるように、青い色彩が鮮やかな絵の前に立った。3年ぶりの、絵。
ゲルテナの作品集では、開き癖が付くほどに幾度も見た。しかし何度見ても飽きる事はなく、何度見ても、懐かしさともどかしさを覚える絵画。でもやっぱり、作品集よりも本物の方が。

綺麗、と呟こうとして、気付いた。

自分が持っている作品集と眼前の絵はどこかが違う。どこが?
そう、静謐ではあるのに、なぜか全体的に柔らかくて。
そうだ、口元が。
微笑んで。


( イ ヴ )


声が、聞こえた。

「…ギャリー…?」

自分の口から誰かの名前が零れる。
瞬間、衝撃が胸を打った。
「え?」
急に、ぼろぼろと涙が零れる。
これは、何。口元に手をやり、今しがた自分が呟いた言葉をもう一度、唱えてみる。探して探してやっと見つけた、大事な糸だと自覚する。ギャリー。そう、そうだ。この肖像の青年は、わたしの知っている。
改めて肖像画を見ると、彼は目を閉じながら確かに微笑んでいる。
満足そうに。安心したかのように。ああ。

「ギャリー」

思い出した。
なくしていた記憶。3年前の美術館での不思議な出来事。暗い回廊、自由に動く作品たち。薔薇の花。絵画の中にいる彼と、金髪の少女と一緒だったこと。そして、その結末。
今まで忘れていたのが信じられないほど、鮮明に。

「ギャリー…ごめんね、ずっとなまえ、呼べなくて」

ぐい、と袖で濡れた目元をぬぐう。
もう一度だけ、『忘れられた肖像』を見た。彼は微笑んだままだ。
彼の笑顔を目に焼き付け、きびすを返す。
階段を駆け下りた。受付の横を通り過ぎたが、先ほどの女性どころか誰もいない。気にも掛けずに、一直線に美術館の中央を目指す。

『深海の世』は、3年前と同じくそこにあった。

膝をつき、立ち入り禁止のロープの下から手を差し入れて触れる。作品に触れることで、誰に非難されようと構わない。今はそんなことよりも、手に伝わる確かなキャンバスの感触の方が問題だった。
「なんで」
あの時のように入れない。軽く叩いてみる。どうして!

「ゲルテナ!わたしをあなたの世界に連れて行って」

衝動のままに叫んだ。
声は静かな館内では響いたが、不思議と誰も注意をしに来ない。しかし叫んでも何の変化もない。3年前は、メアリーに呼ばれた。今回もきっと誰かが道を繋いでくれないと、中には入れないのだと悟った。イヴは立ち上がり、息を吸い込んだ。お願い。

「わたしを、あなたの世界に連れて行って、ゲルテナ。どうしても連れて行ってくれないのなら、あなたの作品を端から壊していくわ。こどもだから何も出来ないなんて誰が決めたの。ねぇ、だから、お願い」

涙腺が緩む。

「わたし、ギャリーに会いたい」

言い終えた途端、頭上の照明が明滅する。ぷつりと消えた。静寂。
瞬きをすると目尻に溜まっていた涙がほほを伝い、足元の絵に沈んだ。下を見ると、ゆっくりと水が波打っている。空虚な目をした魚が跳ねた。
水がむき出しの膝に飛ぶ。


つながった。


歓喜に胸が高鳴る。
思わず笑みがこぼれた。
3年前に感じた不安や、恐怖は無い。この先には彼がいる。
大切なものをなくして過ごしてきたこの3年間を思えば、進むべき道が開けているというだけで何でも出来る気がした。

「今、行くから。待っててねギャリー」

そうして少女は、躊躇うことなく深海へと足を踏み入れた。




2012.08.10
ピクシブにあげたもの。
男前幼女なイヴと
イケメンオネェなギャリさんが好き。