少年、というよりは青年に近い。
先ほどまで確かに人の気配はなかったのに。そう感じたが、確かに彼はそこにいた。
年のころは17、18か。少なくとも、アーサーよりは年上。
青年は不思議な服を着ていた。
ゆったりとした布を、幅広の紐を使って腰のところで括っている。紐ではなく帯と言ったか。本で見た、日本の民族衣装のようだった。けれどアーサーが京都で見た女性が着ていたような派手さはなく、簡素な紺色の布に、繊細な伝統文様が入った細めの帯。
「…Who are you!」
思わず母国語が口をついて出た。
青年が困ったように眉を寄せたことに気付いたが、アーサーは改めて日本語で問いただすことが出来なかった。
大声を出した途端、世界が回る。
不思議な服を着た青年が、僅かに驚いたように目を見開いたように見えた。
「え?」
かしましい蝉の声が遠ざかり、身体から力が抜ける感覚を最後に、アーサーは意識を失った。
ひんやりと、湿った布が額に当たる感触がする。
視界が暗い。目蓋が重く、持ち上がらない。
段々と覚醒してくる意識の中で、現状の把握に頭を働かせる。
祖母に勧められて山に入り、上り、上ってやっと社らしきものを見つけた。更にその奥へと進もうとしたら後ろから知らない青年に声を掛けられて。民族衣装を纏った、黒髪の青年。
華奢で儚げな体躯にもかかわらず、印象的な黒の髪と瞳。表すなら、そう。綺麗、だろうか。唐突に場に現れたにも関わらず、アーサーよりもあの空間に馴染んでいた。
違和感がなかった。
結局、彼は何だったのだろうと思いながら、うっすらと目を開ける。
途端に目に飛び込んできたのは、黒。
光が当たっていて綺麗だ、と思ったのもつかの間、心配げな声が聞こえてきた。
「大丈夫ですか?」
一気に意識が覚醒して飛び起きる。
と、同時にめまいがして、額を押さえた。
「うわ…」
「あ、ほら急に起き上がると良くないですよ」
気を失う前に見た青年だった。
手には濡らした布。傍らには水を入れた容器があった。
どこに寝ていたのかと思えば、先ほど見た社の端だった。祖母の家にもあった、縁側という名の板敷き。
今の体勢を見て鑑みるに、どうやら膝枕をして汗を拭いて介抱をしてくれていたらしい。
「たぶん、熱中症だと思います。水分はちゃんと取っていましたか?」
そう言われれば、山に入る前に水筒から飲んだ紅茶が最後だった。
自らの不手際が悔しく、自然眉間に皺が寄る。
その表情を見て若干慌てたように青年が言を紡いだ。
「あ、すみません。言葉…えーと、アーユー、アンダースタン?」
あまりにも棒読み英語に思わずまじまじと相手の顔を見る。これはひどい。
どうやら外国人が日本語を習得することが難しいとされると同様に、日本人も英語を話すことは難しいようだった。初めて知った。
「…I understand Japanese a little. 大丈夫、日本語わかる」
言語の壁を改めて実感した後、頷きながら日本語で是を伝える。
こちらが日本語を話せるのを知って僅かに安心したように表情を緩めた青年は、次いでアーサーに水が入った器を差し出した。
「よかった。よろしければこちらをどうぞ」
綺麗な陶器の器に、なみなみと注がれた水。
おいしそうだった。けれど躊躇した。
アーサーは、知らない場所で知らない人間に親切を受けた経験が皆無に等しい。近づいてくる人間は、大概が私利私欲を隠し切れていなかった。恩は売り買いするもので、貰うものではなかった。
気付いたときにはすでに奇妙な間が空いてしまっていて、慌てて礼を言って器に手を伸ばしたが、アーサーが触れる前に青年が器を引き戻した。
怒らせたか、傷つけたか。
せっかくの好意を無為にして、不快にさせたか。
好意も素直に受け取れないのか、と自らを不甲斐なく思いながら青年を見ていると、彼は戻した水をそのまま自分の口に運んだ。こくりとその細い喉が水分を嚥下する。
そうして彼は再度その器をアーサーに差し出した。
「大丈夫です。変なものは入っていません」
その、微かな笑みに。
変則的に鼓動が脈打った。
どうしてか顔に朱が上る。
「あ、あぁ。ありがと、う」
今度こそ器を受け取り、水に口をつける。
おいしい。
母国で飲む水とは少し違うようだが、それでもこの暑さで乾ききった身体に、それは染み渡るように溶け込んだ。ほ、と息をつく。
「きちんと水分補給はしないといけませんよ?この辺りはまだ涼しいとは言え、熱射病を甘く見てはいけません。まだ少し顔が赤いですが…体調はいかがですか?」
「へ、平気だ」
彼の顔を直視できず、そっぽを向きながら空になった器を返す。
そんな礼儀に反した態度にも青年は眉をしかめるでもなく、ごく自然に器を受け取った。
「ところで…」
この先どうしようか、何を話せば良いのかと若干パニックになりそうだったアーサーに向かって、青年は思い出したように声を掛けた。
「あなたは、もしかしてメアリさんのご家族ですか?」
アーサーは目と口を大きく開いた。
なぜ、彼が。
「…そうだ」
「あぁやっぱり。その綺麗な目の色は彼女にそっくりだなぁって」
「綺麗っ…いや、待て。なんで、メアリを?」
「昔、彼女もここに遊びに来ていたんですよ。ここ最近はお会いしていませんが…活発で元気な女性でしたねぇ。変わらずにお元気ですか?」
「元気、だな」
「よかった」
安心するように呟く。
まだ若いのに、やけに懐かしむような目をしていた。
「あぁ、そういえば自己紹介がまだでしたね」
青年は居住まいを正し、改めてアーサーに向き直った。
「初めまして、私は本田菊と申します」
「ホンダ、キク」
「はい」
繰り返すアーサーに律儀に返事をする。
添えられた微笑みにまた頬が赤くなりそうだったので、多少慌てて口を開いた。
「俺は、アーサー・カークランド」
「カークランドさん」
「アーサー」
彼には名前で呼んで欲しくて、思わず付け足す。
メアリだけ名前呼びなんて不公平だ。
憮然とした表情のアーサーを見て、菊は苦笑混じりながらその意図をきちんと汲み取ってくれたようだ。
「アーサーさん、は、メアリさんのお子さんですか?」
「まさか。メアリは祖母だ」
言い放った途端、菊が少し目を見開いたので、自分が言いたかった意味をきちんと伝えられたのか少し不安になった。他の表現を考える。
「…父親の母親、祖母、で合ってる?」
伺うような視線を受け、そこで菊が今気付いたかのように瞬きをした。
「すみません、合っています。もう、そんなお年だったのかとびっくりしてしまって…」
「メアリは若く見えるけど、あれでもう60歳だ」
「……そう…ですよね。そうなんですねぇ…」
染み入るような呟き。
もしかして旧知の間柄なのだろうか。
「メアリを、昔から知ってる?」
「はい。…懐かしいですね。最近はほとんどお目にかかっていませんが、初めてお会いしたときは、それはもう活発で元気な女性だなと思ったものです。綺麗なプラチナブロンドの髪と、アーサーさんと同じ、綺麗な碧の目。この辺りは黒髪黒目ばかりなものですから、それは際立って目立っていましたよ」
「メアリは30年?くらい前に、初めて日本に旅行した時から、ずっと日本に住みたいって」
「30年前、ですか…」
それは相槌というほどのものではなく、思わず口から零れ落ちた呟きだった。
アーサーは勿論だが、少年にとっても30年という歳月はなかなか想像がつかないものらしい。単純に考えて、懐かしいと思い返すどころか生まれてもいない。それほど昔の話。
「それより、キクがメアリと会ったのは何でなんだ?」
自分の知っている人間が、期せずして興味を持った人間と知り合いだったというのはなかなか無い。
アーサーが好奇心を隠しもせず菊を見ると、彼はうっすらと笑って口を開いた。
「そうですね…ちょうど彼女もアーサーさんと同じように、今日みたいに暑い夏の日にここにいらっしゃったんですよ。元々日本文化に興味があったようで、地元の方からこの社の話を聞いたらしく。今のアーサーさんと同じように、暑さで参る直前でしたね」
「まいる?」
「あぁ、すみません。えぇと、暑さに負けるというか。そして同じように水をお渡しして、それからのお付き合いですね。何度かこちらに足を運んで下さいましたよ。ただ、やはり旅の合間とのことでしたのでそう長くはありませんでしたが…お帰りになる際には、そう」
ふと、菊が遠い目をした。そうして懐かしむように言葉を繋ぐ。
「素敵な…言葉を残してくださいました。それに、ここに住みたいとまでおっしゃって下さって」
「住んでる」
「え?」
「メアリは今、日本に住んでる。去年、勢いだけで日本にひとり引っ越したんだ」
目の前の少年の目が大きく見開かれた。
彼はまるで大人のような雰囲気だが、こんな表情を見るとやはりまだ子どもに思える。アーサーは菊を驚かせたことに満足し、更に情報を加えた。
「俺がここに来たのも、メアリにすすめられたからだ。詳しい事は何も知らないままだったけど」
「そう、ですか…」
得心がいったというように頷く。
「メアリさんは、すごいですね…言葉にしたことを実現させて。私も見習わないといけませんね」
「キクにも、何か目標があるのか?」
たわいない質問への答えは淡い笑みのみで言葉はなかった。代わりに菊はゆっくりと立ち上がって、アーサーの頭を軽く撫でた。
「体調は、大丈夫ですか?あともしアーサーさんにお時間があれば、軽くこの辺りをご案内しますよ」
メアリさんのことや、色々とお話をお伺いしたいですし。
穏やかに提案された内容に否やのあろうはずもなく、アーサーは無言でこくこくと頷いた。誰かに頭を撫でられるなんて近年なかったのに、日本に来てからすでに2度目だ。菊が横に置いてあった麦わら帽子をふわりと被せてくれたのを良いことに、下を向いて赤く染まった顔を隠した。
夕方も近くなってだいぶ暑さも和らいだ頃、麦わら帽子を被って水筒に水を入れて揚々と帰宅した孫の顔を見て、祖母は初めから知っていたかのように「来年も日本に来たくなったろう」と言って笑った。