どんよりと曇った空だった。
今にも雨が降りそうで、降らない。
紫苑は上を見上げたまま軽く嘆息した。
今夜の夕飯になるはずの堅いパンと僅かな干し肉が入った袋を持ち直し、足早に帰路につく。
この西ブロックでは傘なんて上等なものは勿論なくて、出来れば雨に打たれる前に家に帰りたい。
家、と考えたことに思わず笑みが浮かぶ。
No.6で住んでいたような、日光も空調も完璧に制御された家ではない。ゆったりと疲れを癒す浴槽や、柔らかな羽根布団もない。日の差し込まない地下にあり、大量の本に埋めつくされた場所。それでも紫苑にとっては、紛うことなき帰る場所だった。
だってそこにはネズミがいる。
自分がこれほどまで他者に興味を持つことになるとは、あの12歳の誕生日まで思いもしなかった。台風と一緒に舞い込んできた、あの小さな侵入者の目を見るまでは。
「ねぇ、ぼうや」
思考が断ち切られる。立ち止まり、声の主を探して辺りを見回す。
ふと視線をやった右の路地奥に、肩まで服を下げた女が手招きしているのが見えた。
僅かに逡巡した後、暗がりへ足を踏み入れる。
「僕ですか?」
「そう、あなた。覚えてないかしら、以前にも会ったのだけど」
気だるげに口元に指を添え、面白げに笑う女。
纏め上げた髪が幾筋かむき出しの肩に零れ落ち、豊満な乳房の谷間が見える。
「あの男は元気?」
「あっ…」
思い出した。
この西ブロックに来た当初、紫苑が暴漢に絡まれていたところを助け、そして紫苑を「客」として誘った女だ。あの時はネズミに助けられた。
「元気、です。でも、どうしてまた僕を」
「知った顔が歩いていて、しかも幸せそうに微笑んでいたから。思わず声掛けちゃった」
「幸せそうに…?」
「えぇ。宝物を見る子供のように。何か良いことでもあったの?」
女は聞いた直後にかぶりを振った。
「いいえ、ごめんなさい。こんな場所で良いことなんて、たかが知れてるわよね」
「いえ、そんなことは」
「じゃあ何があるって言うの」
何事にも無関心そうな目が紫苑を見る。
本当に何も良いことなんて無いと信じている、というよりも知ってしまっている目。
期待をしても裏切られる。この西ブロックでは当たり前の考え方であり、きっと紫苑のように楽観的に考える人間の方が異質。もしくはカモとも言う。
それでも紫苑はネズミの強い光を宿す目を思い出し、やはり微笑んだ。
彼のあの目に惹かれてここまで、来た。
「夕ご飯があります」
腕にかかえた袋の感触。
中には、生きる糧である食料が入っている。
「それで?」
「家に帰って人と食べます」
「で?」
「それだけです」
「は?」
ぽかんとした声が落ちた。
目を見開いた女は思っていたよりも幼げに見えた。
「帰る家があって、食べるご飯がある。何よりも一緒にご飯を食べてくれる人がいる。それが僕の幸せです」
紫苑は再度言う。
女はそこでやっと、目の前の子どもが放った言葉が真実本気なのだと理解した。
思わず失笑が零れる。けれど、少年は微笑んだままだった。
確かに、ここでは日々の食料さえ手にいれられない者が大勢いる。屋根の下で食事にありつけることは、恵まれていると言って過言ではない。けれどもそれは生きるために必要な最低限の生命維持活動であり、足元を見て値段をふっかけてくる肉屋のおやじを恨みこそすれ、幸福だなんて。
幸せなんてものは最も高価な嗜好品だと、女は心底思っている。その世界で。
この西ブロックで生活をしていて、様々なものを見聞きした上で、こんなに穏やかに笑えるなんて。
「…あなた、ばかでしょ」
「同居人にもよく言われます」
真剣に受け答えする紫苑に、処置ナシ、とばかりに女が深くため息を吐いた。
「本気でそんな馬鹿なこと言う人間、初めて見たわ」
けれど上げた顔には笑顔が浮かんでいて、生来のものか勝気そうな雰囲気が零れる。先ほどまでの気だるげな表情よりよほど魅力的だった。
「同居人って、前に代金を払ってくれたあの男?あなた、忠告しておくけれどあの男は…」
なぜか楽しそうに数歩近づいてきた女は、間近で紫苑の首の痣を見て言葉を切った。
「まぁ…これは」
不思議そうに手を伸ばす。首筋にくっきりとした赤い痕。
首から鎖骨と、それは途切れずに続いていた。
まるで赤い蛇のよう。
「あ、すみませ、ちょっと、やめ」
女の指が、少年の首筋に這う赤い筋を艶かしくなぞる。
紫苑はくすぐったさに僅かに肩をすくめた。
「扇情的ね」
「え?」
「これ、どこまで続いてるの?」
好奇心の赴くままに女は指を胸元へと進めた。ゆっくりと。
それは愛撫にも似ていた。
「あ、あのっ」
女の指が服の中に埋もれてしまうか否かのタイミングで発した制止の声と、紫苑の後ろから伸びてきた手が女の手首を捕まえたのが同時だった。
「悪いね、これ以上は金を取るよ」
いつの間にか、紫苑の背後にネズミが立っていた。
右手で掴んだ女の手を振り払い、左手で呆けている天然の肩を引き寄せる。そのまま庇うように腕を回した。
「あなたもしつこいね」
「あら、彼氏さんのお出ましかしら」
「俺のだって、言っただろ?」
「ぼうや自身から、誰かの所有物だって聞いたわけじゃないもの」
挑発交じりに女は言った。
眉を寄せるネズミを気にも留めず、紫苑に色の混じった笑みを投げかける。
「ねぇ、ぼうや。あたしにその白い肌に散らばる朱を辿らせてくれない?」
紫苑の肩に回したネズミの手が、僅かに揺れた。
怒りを宿した視線が一層鋭くなる。
「え、と…なんで、ですか?」
「おかしなことを聞くのね。興味を持ったら触れたいと思うのは当たり前でしょう?」
誘うように口元を緩める。
これ以上は時間の無駄だと悟ったネズミが、無言で紫苑の手を取り大通りへ足を向けた。
女は動かない。手を引かれつつも何も返さないのは失礼だと思った紫苑は、後ろを振り返り慌てて口を開いた。
「あ、あの。たぶん、辿っても何も楽しくないと思います」
瞬間、女は腰を折って爆笑し、ネズミは顔を覆って空を仰いだ。
半ば強引に紫苑を路地から引っ張り出したネズミは、大通りに出た時点で紫苑を解放し、何も言わずにさっさと歩き出した。紫苑はしっかりと紙袋を抱きしめ、少し遅れてネズミの後を追う。
「ネズミ、ネズミってば」
後ろから聞こえてくる声に、きちんと紫苑が付いてきていることを確認しながらネズミは小さく舌打ちをした。
どうしてこの天然ぼうやは、行く先々で面倒ごとに引っ張られていくのか。
今日だって、たまたまネズミが情報を集めに街へ出てきていなかったら、あのまま路地に連れ込まれてどうなっていたかわからない。本音を言えばこれから先も少し気がかりだ。引きずられる紫苑に向かって、笑い混じりに「またね」と言った女の言葉は黙殺した。
しょっちゅう面倒ごとに巻き込まれる。
そんな人間を抱え込むなんて、この街では命を捨てるのと同義だ。それをわかっていながら無視できない自分に苛立ちさえ覚える。
「ネズミ」
背後から聞こえる、自分が悪いとは露程も思っていないこの能天気な声。
悪気がないのが一番たちが悪い。
はぁ、とネズミはひとつ深いため息を吐いた。
あまり意味はないだろうが、小言を繰り出そうと肩越しに振り返ると、なぜか紫苑が嬉しげにこちらを見ていた。
「………どうした。」
「ネズミ、僕、わかった」
「は?何がだ」
ネズミは足を止めた。
紫苑も立ち止まり、紙袋を抱えなおす。
「さっき、あの女の人が、興味を持ったら触れたいと思うのは当たり前、って」
「あぁ…言ってたな。それが?」
ネズミを真正面に見て、紫苑は笑った。
「僕は、ネズミに触れたい」
一瞬、息が詰まった。
むせ返るなんて無様な羽目にならなかったのは、ひとえに日ごろの努力の賜物だ。
油断した。
あまりにも率直なその言葉に、柄にもなく動揺した。
ネズミは常々紫苑に言葉の一般常識を教えるべきかと悩んでいたが、これはいい加減実行に移すべきかもしれない。
跳ねた心臓を悟られたくなくて、呆れた顔を装って口元を手で覆う。
落ち着け、落ち着け。慌てても良いことは無い。どころか、すでにだいぶこちらが劣勢だ。
「やっとすっきりした。ネズミに触れたいなって思うの、当たり前だったんだ」
「…お気は確かですか、陛下」
「うん。僕はネズミが好きだし、興味がある。だから君と触れ合いたい」
「お前っ………ああぁもう!」
無理だった。
この天然に勝てる要素が見つからない。
眼前には、夕飯用の固いパンと干した肉を大事そうに抱えた、自然体の紫苑。言うだけ言ってひどく満足げだった。頭上を見れば今にも泣き出しそうな暗い空。
誰もどころか、何も助けてくれそうにない。
ネズミは自らの負けを悟った。