唐突に目が覚めた。
雨音が聞こえる。この地下にまで音が響いているくらいだから、随分と雨脚は強いらしい。
少し顔を上向かせて時計を見ると、暗闇の中、ぼんやりと視界に映る時刻は3時。毛布に包まってからたったの2時間。イヌカシのところの犬でさえまだ夢の中にいる時間だ。
ネズミは小さく嘆息しかけ、ため息を押しとどめた。
目が覚めた原因はわかっている。
背中に当たるあたたかな温度。どうせ紫苑が寝返りでも打ってこちら側に転がってきたのだろう。
振り向きはしない。振り向いては負けだと、本能が訴える。
離れるべきか、と数秒考えたが、これ以上ベットの端に寄ると積み重なった本に当たる。下手に身じろぎして天然坊やを起こしても面倒だ。畢竟、ネズミに出来る行動は限られている。
ゆっくりと目を閉じた。
閉ざされた視界の中、より鮮明に耳に響く雨音。
そして、背中に当たる他人の体温。
あたたかい、と感じる。
4年前、初めて紫苑に逢った時と変わらず命を主張する温もり。
あの時はNo.6の都市で、クロノスにある紫苑の部屋で、その温かさに触れた。
当時はただ、無条件に与えられる優しさに驚くばかりだった。
今は本当は、少し怖い。
完全に空調が整備されたNo.6に対し、この西ブロックの部屋には、防寒といえば小さなストーブと毛布が2枚あるだけだ。空気は冷え切っている。一層、人の体温を間近に感じてしまう。
人間、一度贅沢を知ると困窮に耐えられない。
人の温かさを知って、それを失う痛みに耐えられるのか。
失った後も、強さを保って生きていけるのか。
イヌカシなら、「そんな甘ったれな疑問、持った時点でおしまいだ」と笑うだろう。
ネズミも全面的にその意見には賛成だ。だが、紫苑は。今自分の後ろで健やかに睡眠を享受している、この楽天家は。
きっと「失わない」と、言う。
あの真っ直ぐな瞳で、強く前を見据えて。
「失わない。僕が、守る」と。
何も知らないくせに全てをわかったような答えを返す。
色んなものを与えられてきた人間だからこその発想だ。
No.6ではないこの西エリアでは、全てを疑ってかかることが生き延びる第一とされる。期待を持つな、信用するな。隙を見せれば噛み付かれる。甘い幻想を抱いて物が食えるのか。
常に最悪の状況を考えて策を弄しろ。
そう教えられたし、その教えを間違っていたなんて思った事はない。
実際、そうやってネズミはここまで生き延びてきた。
それが。
「ん」
服が軽く引っ張られる感覚。
今まで自分をとどめるものは何もなく、1人で立っていると思っていたのに。
これではまるで自分の存在が他人に求められているかのようだ。
背に感じるこの温かさを、失うことを想像してみる。
目を開いた。
暗闇に慣れた目が、ぼんやりと、見慣れた部屋の壁を映す。
ゆっくりと身体を起こす。
はずみで紫苑の指が服から外れた。ネズミが動いても、危惧していたように彼が起きる気配はない。その様子に、寝ているとはいえこんなに鈍感で大丈夫なのか、と見当違いの心配をする。
夜色の中でも見つけやすい、真っ白な綺麗な髪と、健やかそうな寝顔。熟睡。
自分の隣で人が寝ているなんてこと、あの台風の日までありえないと思っていた。言い換えれば、人の隣で寝ている自分も。
あの朝、まだ外が暗い中目が覚めて、隣で眠る同年代の子どもの警戒心の欠片もない寝顔を見て、なぜか理由も無く泣きたくなったことを覚えている。
一生彼には言わない。自分が忘れなければそれで良い。
そ、と手を伸ばす。
ふわふわとしてるその白い髪は、見た目どおりの手触りだった。細く柔らかく、そして艶がある。生きている温度。
この温かさを失って生きていけるのか。
自問自答は何度もした。
何ものにも執着しない生き方が一番賢いことは、十分理解している。
けれどもう、手遅れだ。
ネズミは、皮肉げに口の端を上げた。
そして眠る紫苑のこめかみに軽くキスを落とす。
本当に、こんな予定ではなかった。
全ての始まりはあの台風の日。
彼に命を救われたのだから、ネズミが紫苑を助けるのはごく当たり前だと思っている。No.6に復讐するまで死ねないと思っていたネズミにとって、命の恩人という言葉が持つ意味は、重い。ただ、その状況にあぐらをかくほど紫苑は傲慢でも恥知らずでもなく、ネズミも自分の命を安売りする気は毛頭ない。
綺麗ごとばかり言うお坊ちゃん。
その甘さに苛立つこともあるが、気がつけばそれが「彼」になっていた。ある種の夢にも似た、この西ブロックでは奇跡のような甘さを持ったまま、変わらずにいて欲しい、という願望。
その甘さが紫苑の命を危うくするのならば、その分ネズミが彼を取り巻く全てに注意していれば良いだけだ。
ネズミは身体を起こし、自分の信条を曲げさせた元凶を見おろした。
規則正しい寝息が聞こえるだけで全く起きそうもない。
ネズミの心境など我関せずと言うかのごとく、無邪気な寝顔。
馬鹿馬鹿しくなって、軽く嘆息した。
布団から飛び出た紫苑の手を毛布の中に押し戻し、次いで自分もその中にもぐりこむ。外気に晒されて冷えていた上半身が、毛布の温かさに弛緩した。あたたかい。
背中に紫苑の体温を感じながら、ネズミは再び目を閉じた。